『冷戦という想像:普通の人々はどのように戦後世界を作りあげたのか』企画書

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冷戦についてこれまで実に多くのことが語られてきた。何百冊という歴史書が世界中で書かれてきたし、また冷戦の歴史に直接の関わりがあるにせよないにせよ無数の商品も生み出されてきた。試しにオンラインショップで「冷戦(Cold War)」と打ち込んでみるといい。冷戦史の権威ジョン・ルイス・ギャディスの著作から米国退役軍人会のナンバープレートカバー、はたまたアメリカのインディーズロックバンド、コールド・ウォー・キッズの最新ミュージックアルバムまでゆうに8万点を超える商品が次から次へと画面上に現れるだろう。しかしそれほど多くの著作が書かれ、無数の商品が製造されたにも関わらず、その多くがもっとも単純で、しかし根本的な問いを投げかけることはあまりない。その問いとはこのようなものだ——そもそも冷戦とは何だったのか。

この疑問が重要な課題として問われてこなかったのは、その答えがあまりに自明で当然のことのように思われてきたからだろう。その一般的な理解とは以下のようなものだ。冷戦とは米国とソ連の反目に端を発する20世紀後半の世界的な対立構造であり、それはまず第二次世界大戦後のヨーロッパで始まり、次いでアジア、アフリカ、ラテンアメリカに広がり、ついには世界を二分するに至った世界的な対立状況だった、と。米ソ超大国は直接の軍事衝突に至らなかったため、その対立状況は「冷たい戦争」——つまり冷戦——と記憶されるが、その一方で、世界各地で米ソ間の代理戦争が繰り広げられたとされ、その例としては朝鮮戦争やベトナム戦争などが挙げられることが多い。そうした世界的な緊張状況の起源としてよく言及されるのは、ハリー・S・トルーマン、ウィンストン・チャーチル、ジョセフ・スターリン、また毛沢東などいわゆる歴史の立役者とされる政治指導者たちの外交戦略や駆け引きだろう。もちろん私たちはこうしたストーリーを知っている。しかし、こうした簡単で分かりやすいストーリーは、私たちの冷戦に対する理解を深めるためにはあまり役に立たないし、ましてや私たちが生きる21世紀の世界をより深く考えるための助けにもならない。冷戦が終結したとされてからすでに四半世紀が経つ。冷戦政治をめぐるかつてのイデオロギー的で異常なまでの興奮はもはや過去のものとなった。いまこそ冷戦というレンズを外して、その冷戦と呼ばれる現象が何だったのか、またその今日的意義は何なのか考え直す時期にきている。

先行研究と本書のねらい

これまで冷戦史研究の最大の問題は、その研究がある一定の前提と枠組みに捕われたまま進んできたことだ。例えば、外交史家は冷戦の起源やその形成を明らかにしようと政治指導者たちの動機や行為を綿密に調査することに集中してきたし、文化史家や社会史家は、冷戦が当時の文化や社会、人びとの生活にどういった影響を与えたかという点に関心を注いできた。またアジア史専門家たちは冷戦がアジアまた日本にどのような影響を与えたか、という観点から研究を進めてきた。こうした冷戦の起源や影響を問う研究に共通するのは、冷戦の存在を当然の前提として見なす姿勢、そしてその冷戦を変えることのできないあたかも自然環境のようなものとして描く態度だ。こうした研究からは、そもそも冷戦は何だったのかという本質的な議論は生まれてこない。

さらにこうした役割分担に基づいた冷戦研究の発展は、私たちの冷戦に対する理解を一定の形に規定してきた。(阻害してきたと言ってもいいかもしれない)。実際、これまでの膨大な研究の蓄積を前にすると多くの人はこう思うだろう。政治指導者たちの行動と判断が冷戦状況を作りあげ、それは当時の文化や社会、また人びとの日常生活に大きな影響を与えた。そしてアジアまた日本も、その世界的な冷戦の影響から免れ得なかった、と。しかしこうした見方を続ける限り、文化や社会、人びとの生活は常に受け身の存在として見なされることになり、その逆の可能性、つまり文化や社会、また人びとの生活が政治を規定し、冷戦世界を作り上げたかもしれない可能性には思考が及ばない。同様に、アジアや日本が世界的状況の「受領者」としてのみ描かれ続ける限り、それらがどのように冷戦世界形成に同時的に参与したかについても考えることができない。別の言い方をすれば、これまでの冷戦研究、そしてそれに基づいた冷戦理解には、指導者を中心とする社会観、また西洋を起点とする世界観を自然なことのように見なす姿勢が綿々と受け継がれている。だからこそより多くが検討され、語り直されなければならない。というのはそうした理解は単なる社会通念、一種の神話にすぎないからだ。

本書『冷戦という想像:普通の人々はどのように戦後世界を作りあげたのか』(仮題)はこうした姿勢に疑問を呈し、「冷戦」と私たちが考える現象に対して新しい見方を提示することを意図している。結論から言うと、本書は冷戦を第二次世界大戦後の大国の確執から生じた単なる国際的状況としてでなく、むしろ無数の人びとの日常的な行為によって構築された「想像上の現実」として描いている。中心的な問いは以下のようなものだ。どのようにして当初、ヨーロッパ情勢をめぐる言説でしかなかった冷戦が「現実」に変容したのか。その過程で、どのように現実が想像され、そしてどのようにその想像が現実となったのか。またなぜそうした一定の形の現実が必要だったのだろうか。こうした一連の問いを探ることで、本書は戦後社会におけるさまざまな恐怖、敵意、 社会変動への懸念、また先の戦争に関する記憶がどのように冷戦世界の形成に作用したかを検討している。また冷戦という「現実」がなぜ必要だったのかを探る過程で、本書は冷戦の「社会的装置」としての性質を指摘し、それが戦後の混乱や社会内部の異論を封じ込めるという社会的機能を持っていた点を詳細に論じている。こうした点からすれば、本書は冷戦の存在を当然の前提とし、そこから起源と影響を調査するようないわゆる冷戦史ではない。むしろ、その冷戦の虚構性と構築性、またそうした「現実」の社会的作用に焦点をあてた「冷戦という想像」の歴史を描いている。

よって本書での主要な関心は、冷戦がいつ始まったか、誰によって始められたかではなく、どのようにして冷戦の「現実」が定着したのか、また世界各地の多くの人びとがなぜそれを信じたのかを探ることにある。したがって本書では、いわゆる政策立案過程だけでなく、さまざまな地域の普通の人びとが何をどのように想像したか、またどのように冷戦世界の構築に参加したのかを描くことをねらっている。そのため本書では、これまでの冷戦研究に見られない幾つかの新しいアプローチをとった。まずこれまで別個の分野として別々に研究されてきた社会史、文化史、外交史、政治史を融合させることで、これまで政治外交上の主題とされてきた冷戦を社会的、文化的な観点から再考している。そのように扱うことで、冷戦の歴史をいわゆる「偉大な人たち」を中心とする物語ではなく、むしろ普通の人びとの戦後史として描いた。さらには米国、英国、カナダ、中国、香港、台湾、日本、インド、シンガポール、オーストラリアなどの58カ所もの図書館・史料館などで収集した膨大な資料をふんだんに使うことでアジア史、アメリカ史、ヨーロッパ史などといった従来の領域区分を意識的に避け、むしろそれぞれの地域で起きたことの関連性と同時性を探っている。つまり、本書はこのように社会史と外交史、ローカル史とグローバル史を総合的に組み上げることで冷戦の本質を再考し、新しい冷戦像を描くことを目標にしている。

本書の構成と各章紹介

本書は、ほぼ時系列順に並んだ全十章から構成され、それらはおおまかなテーマにそって第Ⅰ部から第Ⅲ部に編成されている。第Ⅰ部は、第一章と第二章からなり、1945年から1950年までの戦後初期を取り扱う。これらの章の主なテーマは、地理的に遠く離れた地域で起きた出来事が、どのように別の地域でのものごとに関連するのか、またその過程でどのような「翻訳」プロセスがあるのかを探ることにある。例えば第一章は、戦後初期における米国、日本、中国の社会・政治情勢がそれぞれ関連しあう状況に注目しながら、それぞれの国内社会において社会的、文化的対立が深まる様子を描いている。そうした戦後の社会的混乱を描写することで、この時期の冷戦の開始を反映していると一般的に想定されるさまざまな現象が、実はより多様でローカルな社会的紛争を内包していたことを示し、冷戦という概念がこの時期まだ議論の余地のある言説にすぎなかった点を指摘している。第二章は、1950年6月から7月に焦点をあて、朝鮮戦争勃発のニュースが、どのように世界中に広まり受けとめられたか、またそれがどのように第三次世界大戦への恐怖を引き起こし、冷戦をめぐる言説に現実味を帯びさせたかを示している。ここでは、東アジア、東南アジア、南アジアから中近東、さらにはヨーロッパから北米地域まで、いかに多くの人びとが朝鮮戦争を同時に目撃したのか、そしてそれにもかかわらずいかにそうした人びとが異なる受けとめ方をしたのか、またそのローカルな解釈の過程で、第二次世界大戦の記憶がいかにその異なる理解の基盤を提供していたのかを示している。

第Ⅱ部は、第三章から第六章までの計四章で構成し、1950年夏から1951年初頭までの約6カ月に焦点を当てている。これらの章では、当時、朝鮮戦争参戦をそれぞれ決定していた米国と中国における国内政治状況と対外政策立案過程を詳細に検討することで、国家と社会がどのような関係にあったのか、また政治指導者による政策立案過程と人びとの生活とがどのように交差していたのかを探っている。こうした検討を通して、これらの章が明らかにするのは、つまるところ、普通の名もない人びとが一体どのような形で政治に関係し、歴史の形成に参画していたのかという点にある。第三章と第四章で究明されるのはワシントンと北京の朝鮮戦争参戦をめぐるそれぞれの政策立案過程だが、ここで焦点になるのは、ワシントンにせよ北京にせよ、それぞれの参戦を決定づけたのは、軍事戦略や冷戦思考というよりも、むしろ大衆感情や国内政治の動きを念頭に置いた「印象をめぐる政治」だったという点だ。

さらに第五章と第六章は、米国と中国それぞれの社会において、どのようにして特定のタイプの「真実」が形成されていったかを探っている。もちろん両章ともに、それぞれの政府主導で始まったプロパガンダ政策を詳細に検討しているが、それにとどまらず、どのように人びとはそれを受けとめたのか、またどのようにしてそれを自らのものとして参加するようになったのかを検討している。こうした考察を通じて、それぞれの社会に根付く先入観または歴史をめぐる記憶などが、いかに「真実」のあり方を強く規定していたかを明らかにしている。さらに、これらの章を通して強調されるのは、こうしたそれぞれの社会における「真実」形成の努力が本当に達成したのは、社会内にコンセンサスを作り出すという本来の目的では決してなく、むしろ、それぞれの社会に内在していた「我々」と「他者」を分断する境界線を明らかにしたことだった。

第Ⅲ部は、第七章から第十章までの計四章で構成され、主に1950年秋から1952年ごろまでを扱う。これらの章では、この時期、世界各地で同時発生したさまざまな「社会的粛清」の社会的作用と構造を分析している。ここで特に検討されるのは、米国におけるマッカーシズム(第七章)、英国での労働運動の鎮圧と日本でのレッドパージ(第八章)、中国での鎮圧反革命運動(第九章)、また台湾における白色恐怖とフィリピンでの「非フィリピン活動」取締り(第十章)などだ。ここで扱うすべての事象が多かれ少なかれ、これまで冷戦という色眼鏡を通して観察されてきたが、本書ではこうした粛清運動に対し、社会的見地からの再解釈を試みている。各章で議論に挙がるのは以下のような問いだ。そもそもこれらの粛清運動と冷戦とはどのような関係にあったのだろうか。冷戦というレンズを外して観察した場合、一体どのような対立や分断がそこにあったのだろうか。今日の世界ならおそらく「草の根保守」とでも名付けられれたであろう多くの人々が、これらの一種の社会浄化運動と粛清運動の過程のなかで一体何をしたのか。こうした問いを立てることで、これらの粛清のいくつかの共通項、たとえば東西冷戦対立の論理がそれぞれの社会におけるさまざまな異論や不和を封じ込めた点や、またそうすることによってその後長く続くことになる一定のタイプの社会秩序と社会的現実を作り上げた点などを指摘している。このように見ることで本書は、これらの粛清運動を単なる世界的冷戦のローカルな結果としてではなく、むしろ世界的冷戦という想像を必要とし、作り上げたローカルな要因だったのではないかと指摘している。

おわりに

本書『冷戦という想像:普通の人々はどのように戦後世界を作りあげたのか』は、2015年春にハーバード大学出版から上梓された『Cold War Crucible: The Korean Conflict and the Postwar World』を基にしている。英語原文の分量が全体でほぼ400ページに及ぶもののため、その日本語訳の分量としては600−650ページ前後を想定している。図版は計32点。読者層としては、本書の歴史書としての性格から、まず第一に歴史研究者を主要なターゲットとしている。地理的また時代区分的な観点から見れば、アメリカ現代史、中華人民共和国史、日本戦後史、また国際関係史といった分野を専門とする研究者がターゲットとなる。またアプローチという観点から見れば、本書は、人びとの日常生活を描く社会史、大衆感情の表象を分析する文化史、草の根の保守運動の芽生えを検証する政治運動史、さらには政策立案過程に注目する外交史などをさまざまな分野を統合し、それらの関連を探ることを意図しているため、それぞれの分野における幅広い研究者層にアピールすることができる。そして何よりも本書は新しい冷戦理解のあり方を提示することを意図しており、旧来の冷戦史研究者や国際政治研究者が最も主要な(そして最も論争と異論を呼ぶであろう)読者層になるだろう。さらには本書が一般的な歴史書と異なり、「現実」や「歴史」に内在する虚構性、構築性を主要な問題としていることから、むしろカルチュラル・スタディーズの研究者などもターゲットとなるだろう。

しかし著者としては、研究者のみならず、むしろ高校生や大学生、一般読者にこそ本書を手にとってもらいたいと思っている。もちろんこの本は、多角的、複眼的なアプローチをとることでこれまでの冷戦史を再考するというそもそも複雑な意図を持っており、必ずしも簡単で分かりやすいものとはいえない。しかしそれでも記述形式としては具体的な描写を多く盛り込んだ叙述スタイルをとり、かつ専門用語を避けて平明な記述をこころがけた。この点は、どうしてこの本が21世紀の今日、日本で出版されなければならないのかについて著者が考える点に関連している。確かに、冷戦を米ソ超大国間の対立としてのみ捉えた場合、それは既に過去のもののように思える。なんといってもソ連はもう存在しないのだから。しかもアジア太平洋戦争などと比較すれば、それは多くの日本の人びとにとっては当事者意識を持ちにくい、どこか離れた所で始まって終わった他人の「戦争」に思えるかもしれない。しかし本書が指摘するように、冷戦を「想像された現実」と捉えた場合、それは本当に過去のものに見えるだろうか。それが社会内の異論や反論を封殺することで、社会の「調和」と「安定」を作り上げるという機能をもった地球規模の壮大な社会装置だったとしたらどうだろうか。それは本当にどこか遠いところで繰り広げられた関係のない戦争に思えるだろうか。

このように見た場合、冷戦は単なる過去の遺物には見えないだろう。むしろそれと類似した傾向は今日の世界で強化されているといえないだろうか。いわゆる「文明の衝突」論からさまざまな宗教戦争、民族紛争、さらには特に9・11事件以降、世界的な広まりをもち、今日さらに拡大するに至っている「テロとの戦い」——。こうした現代の「現実」は実際のところ、どのぐらい現実なのだろうか。そういった「現実」をめぐる物語は私たちの社会でどのように作用しているのだろうか。学校教育やマスメディアを通して私たちが知る歴史の「真実」は一体どのぐらい想像され構築されたものなのだろうか。そもそも私たちが持つ自分自身と他者に対する「常識」—または偏見—にはどの程度の虚構が内在しているのだろうか。もちろん本書は、20世紀半ばの冷戦として知られる現象を題材にしている。しかしその冷戦の構築性と虚構性、またそれらの社会的作用を問い直すことは、根底では、私たちが自分自身の現実や歴史を問いなおすという今日的課題に直結している。ここがまさに研究者だけでなく、高校生や大学生、一般読者といった幅広い普通の人々にこそ本書を読んでほしいと著者が願う理由といえる。というのは、 本書が再三指摘するように冷戦世界という現実を作り上げたのがまさにそうした普通の人々だったように、今日の現実と歴史を作り上げたり修正したりしているのもまさにそうした普通の人びとなのだから。

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